本尊:金銅盧舎那仏 宗派:華厳宗大本山
| |||||||||||
日本人のみならず、世界に知れ渡る日本・奈良のシンボル。平城京の東端になることから東大寺なのだろうが、もっと言えば、仏教の東の端の大寺とも言える。そして原点や他のものが変化していった歴史を見ると、今尚最もその原点に近いものなのかも知れない。知るとか知らないとかのレベルではない。ここの拝観客を見ていると、それは日本でありながら、仏教を知るありとあらゆるインターナショナルな世界が存在する。「シルクロードの東の大ゲート・長安」というレベルで言う、仏教の東端の大シンボルである。 修学旅行・観光、何で来ても、また何回来ても、その奥まで進むことはできないほど、その大きさは半端ではない。日本最大では終わらない、世界最大・最高レベルがごろごろしている。それは宗派どころか、仏教でさえも飛び越えてしまっている感がある。 大乗仏教の東の終焉の地・日本、そこに待ち受ける巨大な寺は、ある意味例えばバチカンのような、或いはエルサレムの嘆きの壁のような、それはどう例えようとも、この寺が仏教最大にして、一番端の大寺であることをよく意味している。そして、それを裏切るようなものは何ひとつない。見事なまでに積み上げられた仏教の教えは、仏像として、或いは仏教を伝える教え・人として、どこまでもその底を見せることはない。 さて、JR奈良駅からだと少しあるのでバスの方が便利か?循環バスは方向違いでなければ、大体東大寺前に停まる。近鉄奈良駅からなら徒歩20分くらいか。しかし、そんなことどうでもよかろう、「全ての道は東大寺に通ずる」、そういうレベルである。 |
参道から待ち構える南大門には、有名な、巨大な仁王・金剛力士像が待つ。再建であり、建仁3(1203)年の完成である。時代と宗派の変遷が調べられていないのであるが、後の時代の仁王は左右が逆であり、前を向いて参詣を見ているが、ここの仁王は左・阿形、右・吽形であり、そして中を向き合うようにして、参詣者を迎える。 現在に残る仁王の作成者は、単純に切り捨てれば、阿形が快慶、吽形が運慶、ということになろうが、そういうことではなく、当時の修復において、今に残っている姿から見ると、仁王像を慶派が担当し、慶派筆頭の運慶が主に吽形を、一方で快慶が阿形を陣頭指揮したが、慶派全ての匠集団の力の結集、と見ることができよう。六波羅蜜寺や三十三間堂辺りでも触れたが、慶派の当時の筆頭が運慶であり、慶派一派は六波羅蜜寺を菩提寺として周囲に住んでおり、また運慶の子供が湛慶であり、三十三間堂中央の大きな観音坐像を作成している。慶派という仏師・匠集団による作成、という見方で宜しかろうと思う。 高さ8.3m余りの両像は、これほどの1本木はないので寄せ木であるが、その合わせられた寄せ木の彫刻は、一切の支えを必要としない。自分で安定して立っている。これほどのダイナミズムを醸し出しながら、それは極めて緻密に計算され尽くして作られており、寸分の狂いもない。また、全体像として作成された後、その大きさから人が見上げるのであるが、それに合わせた各部位の修正もたくさんなされている。高度な技法が駆使され、手抜きのない高い質を表している。 |
本堂である金堂・大仏殿へは中門から回廊で取り囲まれた中に位置する。中門、中央の通りから左の方に、大仏殿への入り口がある。 |
現在の大仏殿は幅57m、奥行き50.5m、高さ46.8mであり、創建当初または鎌倉時代の再建時の幅86mは、江戸時代の修復で40%ほど小さくなっているが、それでも世界最大の木造建築である。ある意味、回廊に囲まれ、内部も広い敷地であるため、もう大きいとかどうとか感じない。しかし、これをどこかに持っていったときに、どんな巨大なものであるのか、は、数字だけでも簡単に想像がつく。 |
大きな金堂の中央に位置する、この大寺全体の御本尊・金銅盧舎那仏は坐像・14.73mもある巨大なものである。天平勝宝4(752)年に開眼供養が行われたが、実際にはまだ大仏は完成しておらず、金銅で覆われていたのは頭だけで、体はその後、光背の完成は宝亀2(771)年だそうである。 皆さんご存知であろうが、この金銅大仏は、内部塑像と外部によって覆われた形組みに、周囲から土を盛り、中の形と外の形の間に青銅を流し込んで作られ、後に外の枠を外していく、という大掛かりな作業で行われている。更に表面の加工や台座の蓮弁の刻印など、5年くらいの制作期間を要した模様である。 |
しかし、一方で、いくら台座などが揃っても、15mの仏像を覆う建物が高さ46.8mもある、というのはかなり巨大な感じがするが、入ってみて目の前にして、「どこが?」としか言い様がない。この室内にあるものは、いろいろ感ずることもあろうが、先ず巨大のひとこと以外には出てこない。もう見飽きるほど見ているはずなのに、何故に心が動くのか、それが仏像の仏像たる所以であり、それだけのものを、それも山寺などではなく、都の1場所に大々的に作成された、ということが、ここが全ての中心である、といったような感じがしてならない。どこにでも資料はあるから困りもしないが、とにかく目の前にして「ああ」という感動は、それは時代が1250年以上経った今でも、その現代人にとっても、何ひとつ変わらない、ゆるぎないパワーを与えてくれる。 |
現代にしては、もう既にこれ以上の大きさの仏像を作る人もいるが、全然桁が違う。「奈良の大仏っつぁん」は未来永劫、何ひとつ変わることなく語り継がれ守り抜かれる。これを見ていると、そういうことがあるのかどうかは知らないが、ある意味、日本が終わっても東大寺は終わらないんじゃないかな?とまで思う。 |
建立の発端は、聖武天皇が皇太子・基親王の菩提追悼のための神亀5(728)年の金鐘山寺に端を発する。天平13(741)年に国分寺建立の詔が発せられたのに伴い、各地に国分寺(金光明寺)・尼寺(法華寺)が建立されることとなる。 その大本山として、都の平城京に大和国金光明寺としてこの寺が選ばれた。そして天平15(743)年に盧舎那大仏造営の詔が発せられ、天平17(745)年から御本尊・金銅盧舎那仏の造営が開始され、天平21(749)年に完成、同時に大仏殿も進行し、天平勝宝4(752)年4月9日に盛大な開眼供養が営まれた。この辺りは皆さんご存知の通り。 大仏開眼までの建立に貢献した、「発願聖武天皇」・「勧進行基菩薩」・「開山良弁僧正」・「開眼導師菩提僊那」は四聖(ししょう)と呼ばれ「四聖建立の寺」とも呼ばれる。 個人的に気になった、大仏開眼の大任を行った菩提僊那の像が2002年・大仏開眼1250年祭に作成されたのだが、彼はインドより呼ばれた僧である。聖武天皇・行基・良弁は馴染みもあろうが、菩提僊那は、他では霊山寺に墓がある程度以外はよく知られていない感じである。 |
さて、東大寺そのものは当時の他の大寺、大安寺(大官大寺)・薬師寺・元興寺(法興寺)・興福寺・法隆寺(または唐招提寺)・西大寺と共に南都七大寺と呼ばれ、南都六宗=三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗の中で、華厳宗の大本山であるが、同時にその全ての宗派の宗所(研究所)が設置され、全ての宗派の勉学所であった。平安時代に入り、六宗に加え、真言・天台の2つも加わり、「八宗兼学」の学問所となっている。 余談ではあるが、西大寺・東大寺であるのであるが、ある意味現在の東京大学=東大よりも、東大寺→東大という意味での、日本最高峰の学問所と考えると、それはここじゃないのかな、と感じるものがある。 |
斎衡2(855)年大地震による大仏様の頭部落下は、真如法親王によって貞観3(861)年に開眼。治承4(1180)年には源平合戦の中、平重衡による伽藍の焼失、しかし俊乗房重源によって文治元(1185)年、後白河法皇による開眼供養、建久6(1195)年に後鳥羽上皇・源頼朝も臨席しての大仏殿落慶供養。戦国時代には、三好・松永の乱により永禄10(1567)年、大仏殿に陣取った三好勢に松永が火をかけ、ほとんどの堂を焼失、しかし江戸時代に入り修復が進み、元禄5(1692)年に大仏開眼供養、宝永6(1709)年に大仏殿の落慶供養が行われる。 東大寺の願いの通りの天下安泰な歴史ばかりではないが、この寺も時代によって被害を蒙り、しかし国家事業レベルで再興されてきた歴史を持つ。この国から、この地から、東大寺がなくなることはないのであろう。 |
|
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
本尊:十一面観音 西国33観音 番外札所 |
東大寺の大仏殿から言うと、ずいぶんと北東の方向へ。鐘楼なども過ぎると大きな堂、ご存知二月堂。ここの御本尊は大仏殿とはまた別に、十一面観音様がお祀りされている。二月堂前は大きな斜面となっており、お堂は舞台造りの構造となっている。階段を上ってお参りする。 多分東大寺に行けば、先ず仁王様や大仏様を見るから、もう慣れてしまうのかもしれないが、どうして大変大きなお堂である。こうしてみると、こんな大きなお堂ってなかなかお目にかかれないよな、とつくづく感じてしまう。 東大寺は聖武天皇の鎮護国家の願いとしての、天平13年(741)3月の国分寺建立の詔の中で、大和の国分寺・総国分寺を兼ねての「金光明四天王護国之寺」としての創意により建立が開始された。国家を挙げての大事業であり、良弁僧正を陣頭に天平勝宝4年(752)に開山となったわけだが、同時にこの二月堂も、良弁僧正の高弟実忠和尚によって創建された。創建より毎年陰暦2月に修二会が行われたため、二月堂の名前がある。 |
すごいことに、東大寺開創、歴史の教科書的に言えば「大仏開眼」以来、1回の欠けることもなく永延と続いている年中行事である。ということは、平成13年(2001)で1250回目という、とんでもない長い歴史を持つ。言ってしまえば、日本民族が西洋文化に触発され、ほとんど姿かたちの変わらない隣の民族を殺そうが、最新戦闘機が宗教の違いが気に食わないと、次々と殺そうが、ここの鎮護国家、ひいては世界平和の願いはびくともせずに脈々と続いているわけで、これほどのメッセージもすごいものだと感じ入る。 右の写真の松明は、二月堂下に準備されたもの。これは「籠松明」といわれる大きい松明ではなく、小さいほうのもの。これでも棒の先の松明は50cm以上くらいは十分ある。大松明は1m以上の大きさである。二月堂前の斜面は立ち入りできず(許可された一部報道機関のみの模様)、こちらから見ていると、向こうの階段を下から松明に火をつけ、駆け上がり、お堂から下に向かって火の粉を散らすように、振りながら走る。 実物を見ると分かるが、太い青竹の先にこれだけの大きさの松明を、それも火をつけて階段を走り上がり、そしてお堂から下に向かって火の粉を散らす、大変な体力である。関西に春を呼ぶ、「お水取りが終われば春が来る」と言われる有名な大行事である。また、ビニールなどと言うものが開発されたので着衣にはお気をつけ頂きたいが、お堂で松明を振ることにより火の粉が飛ぶが、この火の粉を被ると1年間無病息災であるといわれ、大歓声と共に迎え入れられる。 |
修二会(お水取り行法)とは国家安泰、国民の幸福、五穀豊穣を祈る法会で、正式には「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言う。昔は旧暦2月1日から、現在は今の暦の3月1日から2週間行われる。勿論「お松明」が3月1日からであり、準備はもっと前から始まる。一般に言われる「お水取り」とは修二会の中の1つの行事で、3月12日の深夜(13日の午前1:30頃)に、若狭井(わかさい)という井戸から観音様にお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げるところから来ている。 こうして正式名称などから察すると、東大寺・国家中心の寺の行事として、二月堂に鎮座する観音様に対する作法なのかなと考えられる。2週間の法会の間に、「お松明」や「お水取り」などいろいろな行事が、作法に従って行われるわけであるが、一般的に開かれ有名である「お松明」行事が「お水取り」と呼ばれ、よく知られ親しまれている。 |
「お松明」行事は「3月12日」と思い込んでいる方もおられると思うが、本当は3月1日〜14日まで続けられる。ただ、12日が約45分間に対し14日最終日は約5分間、その他は約20分間ということや、大きな籠松明が12日に行われる、などにより3月12日の観光が集中するのだろうと思う。一度3月12日は体験されれば宜しかろうと思う。 3月12日はPM19:30から11本の松明が走るのであるが、大変な人である。夕刻PM15:00頃から寒い中場所取りが始まり、あの大仏殿辺りから人並みは続き、とんでもない人ごみの中に混ぜられる。最後の方にまで見せるため1つ松明が走るたびに1回見た人は出て行くように整理されるので、最初に二月堂前にいれば、寒いのでトイレは行列となり、後ろのほうであったら鐘楼や大仏殿東辺りで立ちっぱなし・大混雑の中で、トイレにもいけない、タバコも吸えない、と大変なことになる。で、11本の中で「籠松明」と呼ばれるのは2本ほどであったか、であるので、自分が見れるのが「籠松明」であるかどうかは分からない、とこんな模様である。私も2回ほど12日目指して行ったが、もういい。他の日にする。しかし、他の日でも休日は大変混んでいる模様である。よく計画を立てられたらと思う。 |
さて、ここの紹介をするのに「お水取り」ばかりになってしまったが、二月堂横納経所には西国観音霊場番外札所の札が掛かっていた。おそらく現在の形に整理される前の札所ではなかったのかと思う。大きな寺で大きな観音様を所持する寺は、こういう寺がたまにある。大阪の四天王寺や兵庫城之崎の温泉寺などはこのようであり、伺うと「番外です」との応えが返ってくるので、御朱印を頂いている。花山法皇の整備など、歴史的に33霊場が固定していないため、「かつて」などといった所が多くある模様である。霊場紹介の本には載っていないが、信心はその人の自由である。 だらだら書いてしまった。スマソ m(_ _)m |
|
2007年3月12日22時7分配信 時事通信
古都の春彩る「お水取り」
奈良・東大寺二月堂の「お水取り」が、クライマックスを迎えた。欄干越しに飛び散る大量の火の粉に、無病息災を願う約3万3千人の参拝客から歓声が上がった(12日夜)(時事通信社)
何か今年は、"お水取り"が終わってから、寒の戻りがあるように感じるけど・・・第1256回お水取りて・・・ |
|
大仏殿から東へは少し上り、鐘楼を過ぎ更に進むと、二月堂・法華堂(三月堂)・三昧堂(四月堂)の各堂宇の前に出る。法華堂は、上がったすぐ前の堂宇である。 |
法華堂は天平12〜19(740〜747)年の創建と考えられる、東大寺最古の建造物である。この辺りに、聖武天皇の皇太子・基(もとい・某)親王の菩提を弔う金鐘寺(きんしょうじ・こんしゅじ)と呼ばれる寺があったところである。 不空羂索観音を御本尊とするため、古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年3月に法華会が行われるようになったことから法華堂と呼ばれるようになった。 堂宇は上の写真のように横から見ると、右・拝殿部分と左・本殿部分が合わさっているように見えるが、本殿部分が古くからの双堂形式であったが、礼堂部分は正治元(1199)年重源上人によって新造された。このお堂で日本初の華厳経が講議されたと云われる。 堂内は、御本尊・不空羂索観音を中心に、16体の仏像が並ぶ。御本尊に対し、脇侍は日光・月光菩薩であるのだが、通常日光・月光菩薩と言えば薬師如来の脇侍であり、お伺いすると、云われがあるらしく、だからこそ正確には、伝日光仏・伝月光仏と表記されている。 |
|
|
三昧堂(四月堂)は千手観音を御本尊とするが、かつては普賢菩薩を御本尊としたため、普賢堂とも呼ばれる。治安元(1021)年、仁仙大法師と助慶聖人により創建、傍らに僧坊を作り、法華三昧行を修した。 現在の御本尊・千手観音は通常の40本手のものであるが、通常に見られる、主たる手は大きいが他は細い、というものではなく、どの手もが非常に実際に生えたように太く、極めて珍しい、写実的なダイナミズムを持っている。 狭い開けっぴろげな堂内ながら、極めて魅力的な仏像が並ぶ。 |
|
|
戒壇院は、天平勝宝6(754)年、鑑真和上の来朝によって大仏殿前に築かれた。戒壇とは受戒の行われる場所であり、鑑真和上によってその作法がもたらされ、僧侶は受戒の儀式を行うこととなった。戒壇は、東大寺・薬師寺・大宰府観世音寺に設置された。 東大寺戒壇は3度の火災に遭い、現在の戒壇堂は享保17(1732)年に建立されたものである。 |
|
|
正倉院は東大寺の宝物殿に当る。現在は東大寺ではなく、宮内庁の管轄になっている。内部の宝物は、毎年恒例で秋10〜11月に、東大寺前の国立博物館で行わている(ご確認ください)。東大寺では、内部拝観はできないが、15:00まで、境内が公開されている。 |
|
東大寺は、幼い頃からよく慣れているはずなのに、その理解と把握はなかなか深い。「別にいつでもいいや」と思いながら、行ってみると意外と知らないことが多く、調べ始めるとその奥の深さにほとほと困り果てる。と言って、別に知らなくても、見たり聞いたりするだけでも楽しく興味深く面白い。日本仏教の理解は、東大寺に始まり、そしていつまでもやはり東大寺なのだな、と感じてしまう。 |
|
Kyoto Shimbun 2007年8月7日(火)
「奈良の大仏さん」すっきり
東大寺でお身ぬぐい
|
|
