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【JTB】京都・大阪・近畿のおすすめ旅館・ホテル

さ ん じ ゅ う さ ん げ ん ど う
三十三間堂
(蓮華王院)



蓮華王院南大門・入場券
(妙法院門跡)
山号:南叡山
開基:伝教大師
本尊:付言延命菩薩
宗派:天台宗延暦寺派別院

住所:京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
電話:075-561-0467
拝観料:600円
拝観時間:08:00-17:00(冬季09:00-16:00、受付は30分前終了)
(参拝の際にはご確認ください)


東壁

参詣入り口

 JR京都駅から七条通を東へ、東大路の手前にある、多分日本一長いお寺。誰がどう呼んでも「三十三間堂」であるが、蓮華王院という名称である。正式に言うと、どうも単なる1「堂宇」であって、お寺としては妙法院門跡に属する。現在は1寺院として独立しているが、所有・管理となるとやはり妙法院門跡に属するらしい。

 妙法院門跡は青蓮院円融院(三千院)とともに天台宗三門跡の1つで、皇后門跡・新日吉門跡とも呼ばれる。当初は比叡山西塔の支院であった。永暦元年(1160)後白河法皇が今熊野社・新日吉社を勧請した際に、西塔本覚院の昌雲(妙法坊)が別当となり、院庁を兼ねた法住寺殿の近くに里坊を開いたのが始まりだとか。(既に単語が分からない・・・)天台三門跡とは青蓮院・円融院と合わせて言う。まあ砕けて言えば、比叡山の西の支院を、1160年に後白河法皇が、1つの寺として独立させた、とでも解釈すればいいのであろう。

 さて長い前置きになったが、長寛2年(1164)、ということは妙法院が成立してから4年後に、後白河法皇の勅願により三十三間堂こと蓮華王院が建立された。造営には平清盛が私費を投じたそうである。

 しかし、さすがにこれだけの大きさのお堂、本堂他五重塔・不動堂など随時建立されていったが、建長元年(1249)に焼失、再建も含め全てが終了したのは文永3年(1266)となる。

 さて写真は堂の東壁であるが、南大門から西側の南壁は秀吉の寄進から"太閤塀"と呼ばれる。


門跡 最初は平安時代の言葉。祖師の法統を継承している寺院・僧侶のこと。平安末期以降は皇族・公家の子弟の住む特定の寺院を指すようになり、寺格を表す言葉となる。江戸時代に制度化されるが明治以降は制度廃止、仏称として残っている。天台宗でも五門跡と言う言い方もあり、毘沙門堂門跡、曼殊院門跡なども含まれる。現在は全国に17ヶ寺の門跡寺院があり、聖護院・仁和寺・大覚寺・輪王寺などがある。



庭木

本堂東側

本堂中央部

本堂西側

 本堂は長い南北方向の柱から三十三間堂と言われるが、全長118m、東西16mほどの、とんでもない規模のお堂である。中は有名な1001体の千手観音が安置されている。中央には湛慶作の千手観音坐像がひときわ大きく座し、周囲の等身大観音立像は慶派・院派・円派を中心として、いろいろな微妙な特色がある。またその前には28部衆、両脇には風神・雷神像。広いというか長いというか、その大広間に所狭しと並べられた仏像その他諸々、まあ堂宇そのものもそうであるが、全て国宝である。何を比較するのでもないし、ご自由で構わないのだが、派手・わびさびなど寺観光に求めるものは多いと思うが、ある意味「見せ惜しみせずにやってくれ」というのであれば、このお堂は半端じゃない。東大寺・法隆寺・清水寺など、日本人としてはどうしても見なければ・・・という寺は日本に数々あるが、ここも正しくそれである。

 さて派手さはともかく、歴史的にはこの位置は微妙である。移設された寺も多いが、寺の前で改めて道路と寺の位置を確認するといろいろ思うことがある。七条通と東大路の突き当たりの三叉路、角の南西にはこの三十三間堂、東側は智積院の北側に妙法院、そして三十三間堂の北側は国立博物館をはさんで、その向こうに豊国神社や方広寺となっている。現存はしないが秀吉が日本史上最大の大仏を建立した寺である。またこの寺の有名なのは、だから焼失したわけであるが、その鐘である。鐘に「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌」と書かれており、家康の「家」と「康」を切り離して呪うなどといった因縁を付けられ、徳川政権下での豊臣氏の立場を無くさせ、大阪冬の陣・夏の陣と滅亡のきっかけを作った寺である。

 三十三間堂建立も平清盛であるし、この周囲は武家社会の権力争いに翻弄されてきている。しかし、ここは自分の感覚であるが、平清盛も福良の港(神戸港)の開発をして対外貿易をしようとしたし、最初の源氏討伐の際も頼朝など子供は可愛そうだからと流刑で済ませている。一方で徳川氏も、自分の権力を安定化させるがために、海外交渉を禁止・鎖国している。どうも日本史上の安定権力者としての大人物よりも、敗北・滅亡していった人たちのほうが、日本的な情があり、心の広さや先見の明があったような気がするが。歴史とは、安定した自己の確立をした人が「成功者」として世に残り安定した政権を築いているが、本当は失敗した不安定政権ではあったが、その人たちのほうが日本の成長のために貢献しているように見えるのは何故だろう。こうして日本史を今となって振り返ると、弟殺しを命じた源頼朝や、「たった四杯で・・・」になるまで世界に遅れた国にしてしまった徳川氏よりも・・・。

 現在2005年3月、今年のNHK大河は義経であるが、先日東北へ逃げる義経と清盛が最後の顔合わせとして、このお堂で中央本尊を拝する清盛と、若き義経が少し話をする、という場面があった。堂内映像として貴重だったのでそれは宜しいのだが、本当は清盛の生存中にこの堂内が全て揃っていたのかな?という疑問がふと浮かんだ。災害で再建があったが、清盛の時代に堂内に中央本尊と1000体観音立像があったのかな、というのは少し考えてしまった。ドラマなので構わないが、多分なかったと思う。間違ってたらスマソm(_ _)m


Kyoto Shimbun 2006年12月20日(水)
最先端技術で「後白河法皇像」を複製
東山・妙法院の重文掛け軸


高性能スキャナーで取り込んで作成した後白河法皇像の複製(京都市東山区・妙法院)

 京都市東山区の妙法院が所蔵する重要文化財の掛け軸「後白河法皇像」の複製が完成し、20日、妙法院に引き渡された。本物は傷みが激しく東京国立博物館で保管されているが、最先端のスキャナーを使って超精巧に仕上げたため、「今後は複製で法要を営みたい」(岸舜栄同院執事)としている。

 「後白河法皇像」は同法皇を描いた代表作で鎌倉時代の作品。法皇が創建し、現在は妙法院が管轄している三十三間堂の開山忌で使用しているが、1948年から文化庁勧告で東京国立博物館に寄託。年に数回、開山忌などの法要の際にのみ里帰りしていた。

 絵の具がはげ落ちるなど損傷が激しいため、同院がスキャナーメーカーのニューリー(京都府久御山町)と文化財修復などを手がける大入(京都市中京区)に複製制作を依頼。素材感や立体感まで読み取る世界最高レベルの再現力を持つ専用スキャナーでデータを読み取り、特製和紙に印刷して表装した。

 妙法院側の意向で損傷カ所もそのまま再現。描かれている絹の繊維まで本物そっくりに見え、同寺では「取り扱いやすく、一般公開なども行いたい」(岸執事)としている。




観音御朱印


妙法院山門

2007.01.14

三十三間堂で新成人が弓の引き初め

 京都市の国宝・三十三間堂の境内で、弓道の上級者と新成人が矢を射る「大的全国大会」が行われた。この大会は、江戸時代に三代将軍・徳川家光が弓を奨励したことに由来する伝統行事(14日)

(時事通信社)14時59分更新

1月13日18時49分配信 京都新聞
的に矢放ち、新成人ら決意新たに 東山・三十三間堂で「通し矢」


集中して的をねらう新成人ら=京都市東山区の三十三間堂で2008年1月13日午前8時20分、望月亮一撮影(毎日新聞)

 新成人らが新春に弓の上達を誓う「通し矢」が13日、京都市東山区の三十三間堂で行われた。大学などで弓道を練習している新成人ら約2000人が腕を競い、決意を新たにした。

 通し矢は江戸時代、武士が三十三間堂の軒下で矢を射って的中した数を競った故事に由来しており、京都府弓道連盟と妙法院門跡が「三十三間堂大的全国大会」として毎年開いている。

 三十三間堂西側の特設射場は、振り袖にたすきをかけた女性やはかま姿の男性が並び、華やかな雰囲気に包まれた。参加者は60メートル先の直径1メートルの的に向かい、呼吸を整えて2本の矢を放ち、的中すると見守る家族や友人から歓声が上がっていた。

最終更新:1月13日20時59分