開基:空也上人光勝 本尊:十一面観音 宗派:真言宗智山派 西国33観音霊場 第17番札所 都七福神 巳成金弁才天
| |||||||||||
西国観音巡礼から行くと、ここは京都市内1日コースのうちの1つ、16番清水寺から歩いて15分ほど。清水寺から清水坂を下り、清水道のバス停で東大路を横切り、松原通りに入り、六道の辻を南に入る。このとき寺北側の建物の壁に「六波羅蜜寺」の大きな字がある。 清水寺の派手さ、人気を見ると、こちらは静かだな、と思うかもしれないが、この寺は深い。この「都七福神・弁天堂」以外は、本堂がほとんどであるが、空也・平清盛・運慶他、末法思想の直前、武士の台頭による乱世の始まりの頃の重要な寺である。 六波羅(六原)は地名なのではあるが、元来ここに平家が多く住居を構え、都の警備をしていたという関係から、後の北条の時代になっても、この場所にも作られたことにもよるが、六波羅探題という名前になってくる。本堂扁額を書いた藤原佐理(ふじわらのすけまさ(さり))は、小野道風・藤原行成とともに三蹟の一人。 |
時代は平安の半ば、天慶元年(938)の頃、首に鳴り物をかけて打ち鳴らしながら「南無だ、南無だ」と念仏を唱えながら京の町を歩く僧があった。猟師に射殺された鹿を哀れみ、その皮をまとった姿は金字大般若経の写経を続けた。人々は親しみも尊敬もこめて市の聖(いちのひじり)とも阿弥陀聖とも呼んだ。これが空也だった。醍醐天皇の第2皇子であったとも言われている。 時を同じくして都には疫病が流行り、戦乱や凶作と共に民衆は怯えていた。辻説法をする空也は南無阿弥陀仏を唱え、仏にすがるようにすすめた。胸の金を鳴らしながら、民衆と一緒に踊念仏を踊った。これは現在の六斎念仏・鉢叩き念仏の源流とも言われる。 |
天暦5年(951)悪病の流行に村上天皇は悪病退散の勅命を空也上人に下した。上人は十一面観音を車に乗せ、病人に梅干と結び昆布の入った茶を飲ませ、病を沈めた。そしてお堂を建立し十一面観音を祀った。当初西光寺と呼ばれたのがこの寺の開創である。上人遷化の後、寺名は六波羅蜜寺となった。 時代は下り、平清盛・重盛ら平家の屋敷がこの寺の周囲に集まるようになる。一時は5200余もあったという。そのため平氏の帰依も大きいが、逆に兵火による興亡も激しかった。 菩提寺であったことから、運慶一族との関りも多く、この寺には教科書でよく見た有名な仏像が多い。あの口から6体の仏、「南」「無」「阿」「弥」「陀」「仏」の各文字を表したものといわれるが、あの像、手に経典を持った平清盛の坐像などを筆頭に、国宝・御本尊十一面観音他ほとんどが重文指定の有名な仏像である。 境内入口・弁天堂左手で拝観券を買うと、本堂左手から縁続きに本堂裏側の宝物館が拝観できる。薬師如来像・地蔵菩薩像などと共に、空也上人像・平清盛像・運慶像・湛慶像などを拝することができる。少し大きめ、または等身大くらいの像の中では、空也上人像は117.6cmという、子供くらいの小ささである。しかし、先の観音霊場巡りなどで慌てて参詣して見逃してしまいそうだが、この非常に有名な像を目の前にすると、なかなか感動する。私も何度も訪れているのになかなか拝観できなかったが、直接目の前にすると、大変に感慨深いものであった。 |
また平成20〜22年辺り、それぞれにかなりばらばらではあるが、西国33観音霊場中興の祖である花山法皇の1000年御遠忌に伴い、全霊場の御本尊が特別御開帳される。数100年振りというものもあり、今から非常に楽しみである。 |
|
|
|
|
京都新聞 2007年12月14日
六波羅蜜寺・空也踊躍念仏
|
