開基:聖武天皇勅願 行基菩薩 本尊:聖観音 宗派:天台宗別格本山 新西国観音霊場 第4番
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南海本線和歌山行きまたは関空方面でも宜しかろう、急行は岸和田の次・関空手前の泉佐野の間に貝塚で停車する(交通は良くご確認ください)。貝塚駅から水間鉄道というのがあり、終点まで10分少し、終点水間駅から少し歩くと川沿いの水間寺に着く。 正月3が日・節分・初午(甲午)には10万人以上でごったがえすという。確かに静かそうでいて、結構参詣者が行き交い、行った際も何らかの法会があった模様。昔から「水間参り」「厄除けの観音さま」として信仰がある。 |
第45代聖武天皇は42歳のときに病床に伏せていた。夢のお告げで観音出現を感得され、行基に勅命を拝した。行基はこの地にて、現本堂裏の滝で16人の童子の出現に誘われ、白髪の老人から1寸8分の尊像を授けられた。そしてそれを持ち帰り天皇に捧げたところ、天皇の病気は平癒された。これが御本尊の云われである。この御本尊の御開帳は現在までないらしい。勅命により行基はこの場所に七堂伽藍を建立した。これが創建の云われであり、天平年間(729〜749)のことと云われる。一説には和銅元年(708)の開基という説もある。 全盛期には僧坊も130という大寺となった。しかし天正13年(1585)3月21日の秀吉の紀州根来征伐に当り、その将秀政の兵火に遭い灰燼となった。その後文禄元年(1592)秀政が岸和田城主となった際に前罪を恥じて小宇を建立、寛永2年(1625)岸和田城主・松平平源康重が9間四面の本堂を改築。天明年中(1781〜1789)には火災に遭い全焼したが、文政10年(1827)に岸和田城主・岡部美濃守長慎により十三間四面の本堂と三重塔が建立され、現在に至っている。 境内は、厄除橋を渡った境内正面に、広い庭に三重塔、その斜め後に本堂が並び、大寺である偉容を誇っている。 |
本堂内部はかなり広い。常に御本尊前に上がっているのかどうかは知らないが、法会の際などに人が集まるのであろう、100人やそこらは座れる広い外陣を持ち、堂前参拝所からだと御本尊厨子は随分と奥のほうになる。 |
さて、境内は多くの堂宇がひしめいている。正月の賑わいは、古くから伝わる千本餅搗が1月2・3日に行われる。観音出現を喜んだ16童子が、千本の木を持って搗いたのが始まりだとか。2・3日には餅つきと銭入り餅投げが行われる。 |
三重塔は開基当時は孝謙天皇より仏舎利が納められた多宝塔であったが、天正の兵火に焼け落ちた。元禄年間(1688〜1704)に江戸廻船問屋の若主人が初午に参詣し、金を借りて帰ったが、なかなか返済にこなかった。しかし13年目にその期間の利息も揃えて返済に参拝にきた。この金を持って塔を建立したという話である。廻船問屋は網屋という人だといわれる。 |
700年ほど前、地の豪農の娘お夏が伏見天皇勅使の山名清十郎と結ばれた、その祈願をしたという愛染堂とお夏清十郎の墓がある。どこにもある、とはいえここも水間の長い歴史を持つ寺町、いろいろな人の出会いが会ったのだろう。 人が絶えることはない、参詣の盛んな寺であるが、街中とは少し離れた地、静かに参詣ができる。そしてその見るものの云われやその人の思いは、それ相応の歴史を感じさせる。 | ||||
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