 童男堂
|
 中門
|
寺の起源は有名な国宝「粉河寺縁起」という巻物にかかれている。鎌倉初期のものらしい。
この地に住んでいた猟師大伴孔子古が獲物を狙っていたとき、山中に光明を発する霊地を見つけ、弓矢を捨て尊像を作ろうと発心した。1月の後のある日、1人の童子(童男行者)が現れ一夜の宿を乞うた。孔子古の願いを聞いた童子は、泊めてもらったお礼に金色の千手観音を刻み、どことなく姿を消した。この童子こそ観音様の化身と覚り、その尊像をお祀りした。宝亀元年(770)のことである。
河内国の長者塩川左太夫の娘が危篤状態のとき、童子が現れ、祈祷して重病を治してくれた。童子は「もし、用があれば粉河を尋ねよ」と言い残し、娘の箸箱を受け取って立ち去った。翌年の春、左太夫一家が粉河を訪れると、小堂に安置されている千手観音の手に箸箱がかかっていた。感激した左太夫は孔子古と力をあわせ、粉川寺の興隆に尽力した。左太夫は米の粉を流したような、白くなった川をたどって小堂に着くことができたため、この寺の名前があるということである。
鎌倉時代には寺坊550を数えたとされるが秀吉の根来攻めによって焼亡。江戸時代、紀州徳川家によって再興された。
|