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開基:延鎮上人 本尊:十一面千手観音 宗派:北法相宗大本山 西国33観音霊場 第16番札所
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「清水寺(きよみずでら・せいすいじ)」といっても全国各地にあり、「清水寺ネットワーク」なるものを調べると、なんと台湾まであるんだそうで。でもやはり「清水さん」といえば、この京都の清水寺であろう。言うに及ばない、誰もが知っている京都の名所。いつ行ってもその人の多さには参ってしまう。 2000年には33年ぶり御本尊御開帳、2003年は仁王門の大修理(500年ぶり、なんと応仁の乱以来だそうで)、奥の院御本尊御開帳(243年ぶり)、気が遠くなるような寺宝の数々にはまいってしまう。御本尊は有名な「清水型」観音、通常の「千手観音」は腕が40本、1本の腕が人間の25倍の能力があるとか、であるが「清水型」はひょろっと伸びたもう2本があり頭の上に小さい如来様を掲げている。とか何とか薀蓄たれたってみんな知ってるし、見ればわかることだけど。 宝亀9年(778)大和子島寺の賢心が音羽の滝に観音様を造り寺を開創、宝亀11年(780)坂上田村麻呂が音羽の滝に狩に出かけ、賢心上人に殺傷を諭され仮仏殿、十一面千手観音を安置して寺を創建、賢心は名前を延鎮と変える。延暦17年(798)坂上田村麻呂・延鎮上人が力を合わせ伽藍の造替、千手観音像・脇侍を安置して寺が創建された。清水寺の創建年はこの798年を言う。 ややこしいが、延鎮上人の発心と坂上田村麻呂の堂宇建立により創建された、ということであり、「清水寺は誰が建てた」などといった下らぬクイズ問題があったため、両者の協力によるもの、という考え方が正しかろうと。そんな紋切型であれば、そりゃ「建てたのは大工さん」の子供の答も無視はできまい、普通はそうは言わない。 |
音羽の滝は時期によっては1時間待ち、など本当によく混んでいるが、みな満足げである。満たされるものがあるのであろう。シャッター場所は、本堂は奥の院舞台辺りから、あとはお参りを終え下を回っているところで、三重塔下に常に記念写真屋さんがいるが、ここは赤い三重塔・西門と花や紅葉がきれいである。 |
この寺にもいろいろな七不思議というものがある。阿吽となっていない狛犬・馬駐の金具・仁王門削り・6本柱の鐘楼・三重塔初層下のワニ・三重塔東南角の鬼瓦・轟門前橋の歯信仰・フクロウの手水鉢・堂堂巡り等等、この寺も歴史ある信仰深い寺であることが分かる。 ひとつだけ薀蓄を(ったってどこかで仕入れてきたのであるが)。「清水の舞台から飛び降りる」というが、これは本当に「投身自殺」ということである。「清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・」というのは言うまでもなく「死ぬつもりでやってみろ」ということである。寺には投身自殺者の名簿が残っているとか。明治の初めの頃に、京都市条例により、現在は舞台からの飛び降りは禁止されている。笑い話では、飛び降り禁止・破った者は死刑とかいう話もあるが。 まあ観光地での迷惑なことなどやめておくことだろう。そんな暇があったら、どの仏様でもいいからじっと見て、自分の愚さを認識し、明日への希望を持つことであろう。ここはそういった人の思いが1200年以上も積み重なってきた場所である。 奥の院御本尊の御開帳は平成15年に、243年ぶりに行われた。奥の院御本尊は3面のお顔、頭上には25面、更には坐像という非常に珍しい千手観音様である。そのせいもあるのか、まあそれがなくったって、修学旅行生、観光客でごった返している。しかしお寺の方々はさすがに仏に仕える人たちであった。 |
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清水寺の本堂をうまく写せるところ、奥の院になるわけであるが、ここにも舞台がある。2005年4月4日(月)の京都のニュースによると、2005年秋に向けて改修するのだそうである。後に、平成18年初頭に奥の院舞台修理終了のニュースが流れた。本堂もそうだが、舞台づくりの背景には、崖っぷちという建築構造があるわけで、その舞台を支えるのは数多くの柱とその土台の木組であることは間違いない。その上に常に数多くの観光客、それは当然頻繁な改修を要する話である。秋の紅葉のシーズンに向けて、夏に改修する模様である。 古寺が保持されているのは、大事な最初の原型が残されていることではなく、常に安全・新鮮・荘厳に改装補修が行われていることである。1200年前の姿を構成する木材そのものが残っていることとは違う、その姿を変えない高い技術集団によって、それが絶えず改修されて、原型に近く安全に保持されているということにあるわけである。また新調奥の院舞台を期待したい。 |
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Kyoto Shimbun 2006年6月3日(土)
清水の舞台 ヒールに泣く 張り替えも「ピン」で深く、穴ぼこ
清水寺(京都市東山区)の「舞台」(国宝)の床板が女性客のハイヒールに泣いている。2年前に張り替えられたばかりだが、直径1センチほどのくぼみがあちこちで目立つようになってきた。年間に約400万人が拝観する「清水の観音様」は、どんな信仰をしていてもすべて受け入れる「普門示現」の菩薩(ぼさつ)さま。ヒールを履いた人を排除するわけにいかず、お寺は頭を痛めている。 舞台は広さ190平方メートルで、縦5.5メートル、横0.3メートル、厚さ0.1メートルのヒノキ板約500枚が敷き詰められている。15-20年ごとに張り替えられ、最近では2004年に15年ぶりに新しくされた。 お寺によると、くぼみが目立ち始めたのは20年ほど前からで、ハイヒールが原因とみられる。近年になって、ハイヒールよりさらにヒールが細い「ピンヒール」を履く女性が増え、深いくぼみが目立つようになったという。「雨が降ると水を含んで床板が軟らかくなり、へこんでしまう」(庶務部)ことから、年2回、水をはじくはっ水剤を表面に塗り、毎朝掃除機をかけて床を清掃しているが、限界があるという。 森孝忍庶務部長は「ファッションの規制はできないし、国宝なので舞台にシートを張る訳にもいかない。モラルに訴えるしかない。傷みが激しくなると、床板の張り替え時期を早める措置が必要だ」と心配している。 国宝保存に規制を設けるのは構わないことじゃないのだろうか?「観光客」であって「参詣者」じゃないわけだし、寺でなくてもどこでも買い物でもしてもらってりゃ良いわけだし。最近の人間は、いちいち「言わないと分からない」程度なんだから。『どんな信仰をしていてもすべて受け入れる「普門示現」の菩薩さま』と言うが、じゃあ「私の希望の日に、御本尊の御開帳を」という願いは聞く必要はない。同じことだ。「何でも願いを聞き入れる」ことと、「謙虚な姿勢で仏を拝む心に値する服装」に気を付けることは、決して相反することではない。わがままは自由ではない。 |
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Kyoto Shimbun 2007年6月4日(月)
田村麻呂の墓か
山科・西野山古墓 文献で一致
平安時代初期の征夷大将軍で清水寺(京都市東山区)を創建した坂上田村麻呂(758−811)の墓が、山科区西野山岩ケ谷町の「西野山古墓(こぼ)」である可能性が高いことが、京都大文学研究科の吉川真司准教授(日本古代史)の文献調査で、4日までに分かった。 吉川准教授によると、平安後期の「清水寺縁起」に田村麻呂の墓の位置や範囲を示す記述があり、平安時代の山科周辺の条里図で調べたところ、西野山古墓と一致したという。同古墓から1919年に出土した金装大刀や鏡(いずれも国宝)などの年代がほぼ同じころで、上級貴族が所有するような高級品なことから、田村麻呂の墓だと判断した。 現在、同古墓から南東約1・5キロの同区勧修寺東栗栖野町に田村麻呂の墓とされる遺跡がある。また、73年には民間の郷土史研究の論文で、吉川准教授と同じ方法によって、同古墓近くに田村麻呂の墓があるとする指摘がされている。 吉川准教授は「古墓の近くを通る滑石街道は、当時、東国から都に入る主要ルートだった。都の玄関口でにらみをきかす意味もあったのではないか」と話している。 |
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2007年06月04日
坂上田村麻呂の墓特定 京都・山科「西野山古墓」
平安初期の武人で上級貴族だった坂上(さかのうえの)田村麻呂(たむらまろ)の墓を、京都大大学院文学研究科の吉川真司・准教授(日本古代史)が文献調査で特定した。1919(大正8)年に京都市山科区で発掘された「西野山古墓(こぼ)」の可能性が極めて高いという。田村麻呂が創建したという清水寺(京都市東山区)に残る平安後期編纂(へんさん)の「清水寺縁起」に墓の位置が記されていた。 墓の場所は「縁起」にある弘仁2(811)年10月17日付の朝廷の命令書「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題に記されていた。行政の最高機関が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があった。この場所は平安時代の図を基にした「山城国宇治郡山科地方図」と照合すると、今の山科区西野山岩ケ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するという。「太政官符」はこれまでも研究されてきたが、表題の記述は注目されていなかったという。 西野山古墓は清水寺から南東約2キロの山科盆地西部にある。8世紀後期から9世紀前期と見られ、田村麻呂の時代と一致する。大正8年に墓穴が見つかり、内部から、武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土している。 こうした研究から時代と位置と身分が一致し、田村麻呂の墓と特定した。古墓の南東約1.5キロには、地元で「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる史跡があり、坂上田村麻呂公園になっている。 吉川准教授は「当時の名前が明らかな上級貴族の墓は特定されておらず、他の遺跡を考える物差しが一つ決まる。この場所は平安京の東の玄関口で、そこを守る所に田村麻呂を葬ったことから、死んでも平安京を守ってくれる武将という考えを当時持っていたのかもしれない」と話す。 遺物は1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)が所蔵している。6日から7月8日までの「京大の至宝」展で初公開する。 |
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2007年12月12日16時5分配信 時事通信
今年の漢字は「偽」
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開創:不明 中興:徳空上人 本尊:阿弥陀如来
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清水の正面参道は大変ごった返している。その中に宝徳寺はある。他にも2箇所くらいあるのであるが、清水寺の関連の、元宿坊とかかと思いきや、関連はないのだそうである。 特筆すべきは御本尊。聖徳太子が42歳の時に刻まれたもの。そのため厄除けの御本尊として信者も多い。 |
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