開基:醍醐天皇勅願 観賢僧正 本尊:十一面観音 宗派:高野山真言宗別格本山 新西国観音霊場 第6番
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高野山中心伽藍である壇上伽藍の前、バス停金堂前を南に入ると、宝亀院がある。山門を入ると本堂も外から参拝、納経だけで済ませてしまって通り過ぎるような構造であるが、実はこの寺は弘法大師の大師号に大変なゆかりのある寺である。別名を御衣寺という。 |
建立のきっかけは弘法大師に非常に関りがある。その謚号は延喜21年(921)、醍醐天皇によりおくられたものである。謚号のきっかけとして、醍醐天皇の枕もとに大師が現れたなどの伝説もある。高野山に伝わる、それでもある程度は伝説だが、その話は以下のような内容である。 朝廷は生前の偉業に対して謚号の申請書の提出を高野山に下されており、高野山は「本覚大師」と申請したが、朝廷はこれを3度までも「弘法」と仰せられた。そして醍醐天皇により謚号がおくられ、弘法大師の孫弟子、醍醐寺創建の聖宝・理源大師の弟子、般若寺の観賢僧正によって、それは高野山に伝えられた。そしてこのことは、醍醐天皇勅使としての観賢僧正が、入定後初めて86年の時を経て、弘法大師の廟に入った、という史実となって今に伝わっている。 大師号の謚号を伝える任を負った観賢僧正は、奥の院御廟の岩屋に入ったが、霧が立ち込め何も見えなかった。僧正は「私はこれまで罪も犯さずにこれまで来たのに、何故に大聖人大師の姿が見えないのだろう。」と嘆かれた。するとたちまち霧が晴れ、大師のお姿が現れた。しかし髪は膝まで長く伸び、御衣は風に吹かれて飛び散った。僧正は御剃髪と、天皇から預かった御衣の取り替えをして差し上げた。このとき大師は入定から出てこられ、謚号を頂いた天皇の勅語を聞かれ、僧正にも話をされたと云う。同時に石室にお供したのが、僧正の弟子・石山(石山寺?)の淳祐内供(じゅんにゅうないぐ)であったが、大師のお姿を見ることはできなかった。その旨を僧正に伝えると、僧正は手を取り、大師の膝に導いた。その香は何に例えることもできない五分法身・尊き聖者が感じ取られ、それに驚いた内供は一生その手を自分の皮膚に触れることはなかったという。 そしてその際に、醍醐天皇から勅命を受けた観賢僧正が建立したのがこの寺である。宝亀院の名は、大師の御生誕が宝亀5年(774)6月15日であることにちなむ。そしてそれ以来、毎年大師の命日3月21日に、大師の御衣を御廟前にお供えする、ということがなされるようになり、衣を染める際の水は観賢僧正の掘られた井戸の水によって行われる。このことから、この寺は別名"御衣寺"と呼ばれるのである。 堂内の御本尊十一面観音・弁天像は弘法大師謹刻、御本尊の十一面観音像は嵯峨天皇より天皇家に伝わるものであったが、醍醐天皇によって観賢僧正に下賜されたものである。そして、この寺には、観賢僧正が大師御廟内にて見た、髪の伸びた大師のお姿を描いた「御入定大師」の掛け軸が残る。堂内に残るのであろう掛け軸であるが、通常は公開されてはいない模様である。 |
この寺に関して、この「弘法大師の謚号下賜の話」が書かれていない本は、いい加減のレッテルを張っても宜しかろうと思う。御廟内部の話が大袈裟なのかどうかはともかく、弘法大師にまつわるどこにおいても伝わっている話であり、このことが書かれていないようでは、この寺の重要性は理解できまい。御朱印を貰って、「はい、さようなら」しか言えまい。ここはそんなものではない、こういう由緒正しい、非常に重要な寺である。御本尊は国宝である。御入定大師の掛け軸は、検索してもほとんど出てこないので調べようもない。 季節は4月も終わり、山の上のこと、丁度桜の時期であった。本堂というか本坊というか、「中へどうぞ」という構造ではなく、それも閉まっているところばかりであったが、この寺の建立のゆかりはそれは弘法大師にまつわる非常に重要なものである。 |
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