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勉強、えらく簡単なことばである。学習と書こうが何であってもよい、そういう類のもの。実は勉強と「コピー」というものは、極めて似ているので、受け取り間違えている人間がいるのである。もの凄いことを書こうとしているのか?そうでもないのだが。 勉強という過程は、実はコピーを覚えるということが基本である。人間としての前任者、そういう人たちの積み重ねしもの、それを覚える、勉強とはそういう行為ではある。あらゆる分野の、先人の大変勉強なさった方々、どういう分野でもよい、その方の一生かかって証明した論文は、小学校の2時間で済んでしまう、そんなものだ。勉強とはそういう「先人の成功の道を辿る」ということを、まとめ上げていったものを覚えいるに過ぎない。先人の轍は踏まない、成功したその結果しか見ないのだから。後人がより高く進む方法はこれしかない、勉強とはそういうシステムを必然として持つ。 至極当たり前のことを書いているようであるが、この当たり前のことを悪用する人間が出てくると、こういうものが出てくるのか、ということに呆れているのである。ネット上にWikiというものが蔓延っているようである。ウィキペディア(なんかこのurlなんですが壊れてるな)というものは、「ネット上の百科事典」を目指し、その知恵袋として「誰からの意見も受け付ける」という書き込み自由というものである。星新一さんではないが、ネットPCという社会であらゆる知識を集めたサーバを作ろう、とでもいうものである。 そしてそれは、当たり前の如く、壁にぶち当たっている。「誰でも書き込みフリー」ということは、意見の戦い合いがあるのであり、それは書き込み・編集・削除自由であれば、単なる「荒らし」の場所にしか過ぎないのである。その点は「2ちゃんねる」のほうがはるかに賢い。元々「ネット上の掲示板」でしかないのだ、彼らの言う通り、それは「便所の落書き」でしかない。そういうことを考えると、ネット上の最高の集会所は、最も格下なものでしかないことが良く分かる。 まあ例えば困ったもので青海波とかいうWikiがある(現在はここに残骸が残っている)。これを見て、何らかの論文・研究をやっている姿に見えないものはあるまい。いかにも権威者的ページである。ところが、よく内容を見てみると、個人のページへのリンクだらけである。それで「調べました」だと。鯖管である、ソニーコミュニケーションネットワーク株式会社の佐々木とかいう電話番は、それでさえも理解できず、己の阿呆さはどこへ置いてきたやら、言い訳をすればどうにかなると、その嘘をつきまくる。「嘘」と分かっていることなので、非常に技術的なことであり、理解しやすい大嘘がすぐにばれる。そして、自社のサーバ内に展開する他人迷惑は「知ったことじゃない」らしい。ま、上司がどこまで見抜けるか、ではあるが、基本的には「抜けている」以外のなにものでもない。 まあようやっと、鬱陶しい執着を終えたようであるが、佐々木に関する謝罪がないうちは、こうやっておくしかない。So-netがどう思うのかは、その態度を示さない限りどうしようもなく、このままである。また、どうも見ていると、少しの調べものとはいえ、青波海自体もただのブログである。本当のPukiWikiはこんな低レベルではなく、きちんとやっているみたいであり、「今日の感想文」如きの青波海とはわけが違う。ブログとは何か?知らないようである。そういう点は、子供の絵日記が体裁だけを大人の振りしても幼稚である。そうなれば、この内容も理解できよう。基本的には、子供の仕事は勉強でしかない。それを晒してあるだけだ。 ネットにブログまでこうして氾濫する毎日、それは「監視」の下に晒されている、それしかないのである。勿論、監視者は「他のあらゆる人」であることは当たり前、こうして名前を晒す私もどう見られるのか、ではあるが、悪用は困るのでこうしている。 どこの世界に、「論文書いてこい」という卒論の提出に、他人の過去の研究成果のコピーの切り貼りをして「勉強しました・出来上がりました」、この世にあるか!である。これは完全なる「コピー」でしかない。青海波の主催はそれが理解できないレベルらしいし、So-netは、それを把握もせずにサーバを貸している。世の中のあらゆる知識は、広く使われ、良い生活に役立てばそれで良いのだ。ある特定の人間に「揚げ足取り」されるための知識などないのだ。Wikiとさえすれば、何でもあり、とでも思っている。馬鹿である。 こういったものは、割とそういう「先生」とか「研究」とかいうものに関る人間に現れる。ひとことなのだ、「社会常識がない」のである。世の中から、若い時から「先生」としか呼ばれたことがなく、先生という称号が「偉い」とでも思っているのである。先生が偉いのは、「先生と呼ぶ人の尊敬の念」なのであり、呼ばれる側がそれに応じた能力がなければ、それだけのことだ。「師」それも「大いなる師」という大師のあり方は、「空海」という御本人が思うことではなく、それを慕う後人のありとあらゆる弟子、直接だろうが間接だろうが見たこともない現代人であろうがそれを慕う、その姿が立派なのである。そのあり方が立派なのであり、どこかのページではないが、衛門三郎に邪険にされた時に「この家には災いが来るであろう」なんて空海が言うわけがないのである。それは勿論、後世の称える話かもしれないが、空海の人生が現実にどうであったか、ということではなく、どんどんとその叡知はそういう美談になっていく、それもまたその人の力なのである。それは「空海がそんなこと言うか!」は当たり前なのである。 こういった、現実社会の愚行も大師への尊敬の念も、どれをとってもあり方は同じなのである。自分がひたすらに目指すとき、その姿に笑われるようなことも何もなく、自信を持って自らの一歩を進めるであろうと思う。へんろをするありとあらゆる人は、そういう風である。家の中で、ネチネチと、暗いことをやっている、フロアに1000人いても同じこと、その「会社」とかいう登録の中で、「社会の常識から箍をどこまで外せるかの実験」、んなものこの世に要らない。それはその、そこを行くおへんろさんの、その第1歩にさえも引けを取る。何も考えない、ただひたすらに「大師の後を追いたい」、その気持ちから放たれる最初の左足、続いて出てくる右足、その繰り返しにしか過ぎないものが、例えば1400kmを生み出す。「最初の1歩のあり方は右足であろう」「いや左足だ」「最初の足をどちらにするかを考える会」、阿呆としか言い様がない。それはそうだろう。 へんろの尊さというものは、はっきり言えば大したことではないはずなのだが、その積み重ねは、例えば1ヶ月少々で1400kmもの「人生の隔り」を生むのである。「1400kmが届くかよ」諦める人間もまた甘い、行こうと思えばそれは他人も1〜2ヶ月くらい、「やってみなはれ」でしかないのである。 へんろの尊さは、東大を出たエリートの自分ではなく、それを育ててくれた親を思う気持ち、そんなものである。「俺は東大を出たから、就職・昇進もどうにでもなり」という自惚れではなく、「そこに至るまで運び出してくれた、手にアカギレだらけのみすぼらしい年寄りとなった、あなたの親」そっちなのである。そういう思いが持てない者に、そのはるか昔からそれらの人が尊敬の念をこめた「大師」のあり方が理解できようか?「俺は東大の研究室で大師を研究しているから偉いんだ」とは思わない。それは先のWikiレベルの如きこと。そうではない、愚鈍ながら寒空の下歩を進める「へんろ」の方にこそあるものだ。それが理解できない者に、その先にある「大師」は理解できまい。それは当たり前のことだ。 愚鈍な1歩に勝るものはない、そしてそれは時代を問わないようである。革命的な進歩的第1歩を標した者の凋落は、時代の興亡としてよく把握しているではないか。人間は、「己がどれだけ愚鈍なものか」を把握するからこそ自覚なのであり、それさえもなければ、それはどこにどう足を下ろすかも分かるまい。こういったことは、時代とは関係ないことは良く分かった話であろう。 いつまで経っても同じことなら、いつまででも同じことを言われる。 |